サーミ人の民族衣装を特徴付けるのは、特にその色彩豊かな上着、コルト(Kolt)である。フェルト地で作られるこの上着は、主に女性の手によって織られ、地方ごとに細かな差異が見受けられる。例えば、帽子のデザイン、フェルトの地色や飾り付けの違いによって、それを着ている人が、どの村の出身であるのか、大体のことがわかるという。
このコルトは、つい十数年前まで、あまり積極的に着られることはなかった。もちろんサーミ民族評議会など、民族としての誇りと自由を訴える組織に参加する一部のサーミ人たちはその限りではなかったが、長年に及ぶ先住民族軽視の風潮の中で、自分たちがサーミ民族であることを宣言するのは、並大抵の勇気ではできないことだったのである。
その影響からか、コルトを縫える人は減少してしまっていた。しかし、「民族的なもの」が再び見直されつつある中、サーミ人の若年層が中心となり、再び民族衣装を積極的に身に着けていこうという流れが生まれている。現在伝統的なサーミ人の衣装を身につけているのは、それをずっと着続けている老人や、サーミ人の文化的な自由を支持する若い世代(主に作家や芸術家、インテリなど)なのである。そういった層からはわずかにずれた、「普通のサーミ人」にしても、特別な場合の礼服として、普段着として、民族衣装を着る機会は確実に増えてきている。
サーミ人が作る手工芸品は、ドゥオッチ (Duodje) と呼ばれている。工芸品といっても鑑賞のためのものではなく、あくまでも日用品として、機能的、実際的なデザインのものがほとんどである。
ドゥオッチには、様々な素材が使われる。木や骨、トナカイの角、動物の毛皮や真珠、ブリキ、刺繍、レースなどが主に挙げられるが、伝統的な素材として説明するとしたら、真珠やブリキといったものは除外される。サーミ人たちは、歴史を通じて、鉄鉱石や金、銀といった鉱物資源を持たなかった。それ故、時に侵略者であった他のスカンディナヴィア人たちがもたらす鉄製品は、サーミ人にとって得難い貴重品として扱われていた。
最も伝統的な資源はトナカイである。トナカイを遊牧する習慣のない海岸サーミ、河川サーミ、湖サーミはその限りではなかったが、森林サーミや山岳サーミの間では、トナカイは正に万能の資源だったのである。トナカイの毛皮で遊牧中の住まいであるテント(ラッボ)を、トナカイの角でナイフの柄を作り、トナカイの毛皮で作った衣服や靴を、トナカイの腱で作った糸で縫い合わせていたのである。
サメやリャマのように、「捨てるところのない」資源として使われていたトナカイであったが、そのトナカイの皮を剥ぐためのナイフの刃だけは、鉄製品に頼らざるを得なかった。当時鉄製品はスカンディナヴィア人から購入する例がほとんどであったが、サーミ人の中にも、こうした技術を習得するものがいないではなかった。彼らは専業の鍛冶屋となったが、サーミ人にとっては神秘的とさえ言える技能のために、鍛冶屋は、偉大な魔法の力を持っているとさえ考えられていた。
山岳サーミ人にとって最大の富はトナカイであった。しかし17世紀、スカンディナヴィア半島北部から銀が発掘され始め、山岳サーミ人がその遊牧という特性から銀の運搬を請け負ったことで、サーミ人の間に銀が富の象徴としての意味があることが広がった。その時から、サーミ人は銀細工を所有することで、富を顕示するようになったのである。現在でもその名残は確実に残っており、サーミの人々の間では、銀細工が非常に好まれるという。
これら工芸品は、「観光資源・サーミ人」を訪ねて来た観光客は勿論、スカンディナヴィア人たちにも広く販売されている。これらの売上は、地元の経済に大きく貢献し、元々日用品であった手工芸品は、今や売り物としての側面の方が大きくなりつつあるのである。
現在、比較的日本でも手に入りやすいサーミの工芸品として、ククサが挙げられる。ククサは白樺の木のこぶから作られたカップで、「これを贈られた人は幸せになる」という言い伝えがあるとされているが、それが商業上の宣伝文句であるのか、実際の伝承であるのかは定かではない。
宗教と教会 [編集]
サーミ人の信仰は、そもそも森羅万象に宿る様々な精霊を対象とした精霊信仰であった。季節、人間や動物の健康や繁栄、自然がもたらす様々な災害や恩恵、あらゆる物が精霊の力によるものと信じていたのである。そのため、全ての事象の根源である精霊の声を聞くシャーマンの存在は、サーミ人の宗教において必要不可欠なものだったのである。
精霊たち、また、父であり、母である太陽や大地と交信し、森羅万象の変化の原因を突き止めるために存在していたのが、ノアイデと呼ばれるシャーマンであった。ノアイデは極めて稀な才能であり、それ故に、彼らは常に尊敬と畏怖の対象であり続けていた。
サーミ人の社会は、神の意志と、シイーダ内の古老たちの知恵に基づいて運営されていた。古老たちは、現世の問題(人々の諍いや、狩猟、漁労を、いつ、どこで行うかといったようなこと)を解決していたが、神や非現世に関する問題に関しては、ノアイデに一任されていた。ノアイデはシャーマン・ドラムを打ち鳴らしながらトランス状態に陥り、どの精霊が問題を引き起こしているのか、どうすればそれを解決することができるのかを知るのである。誰かが病気になったとき、その魂は肉体を離れているという考え方がサーミには存在しているが、この「盗まれた」魂を取り戻し、病気を治すのも、ノアイデの仕事だったのである。
こうした精霊信仰も、16世紀に入り、キリスト教の布教がラップランドまで及んだ時、例外なく弾圧の対象となった。現在サーミ人の大多数がルーテル教会、もしくは正教会に属しているが、17?18世紀までには、この基盤はすでに出来上がっていたと見られる。この流れに抵抗し、精霊とノアイデへの信仰を忠実に守り続けたサーミ人も、決して少なくはなかったが、スカンディナヴィアの宣教師たちは、彼らを迫害し、特にノアイデの改宗、撲滅に努めた。
キリスト教布教の動きが最も高まったのが、19世紀、ラエスタジアス神父がサーミ人の改宗に訪れたときであった。彼が創始したラエスタジアス派はノルウェー、スウェーデン、フィンランドで現在でも広く信仰されている。
こうしたキリスト教化の流れの中で、それでもノアイデは19世紀半ばまで生き残っていた。精霊に付いての知識や薬草を用いての民間療法の方法は今なお伝承されているが、それと信仰が結びつく、ということは、完全になくなってしまった。
音楽 [編集]
サーミ人の音楽を特徴付けるのは、ヨイク (en;Yoikあるいはjuoiggus)と呼ばれる、基本的に無伴奏の即興歌である。
ヨイクは、上述したシャーマニズムと関連して誕生した音楽である。サーミのシャーマン、ノアイデは、トランス状態に陥る時、幻覚作用のあるベニテングタケの一種を服用していた。このキノコに誘発された激しいトランス状態の中、精霊との交信を行うのだが、さらにその状態を深めるため、大声で歌われていた歌、これがヨイクである。
シャーマニズムとの関連から、ヨイクは自然界とコミュニケーションを取るための道具、方法としてとらえられる。太陽や月、山、川などを対象に、その成立に関する物語を歌う、叙事詩のような形式を取ることもあれば、対象への賛美と感謝を歌う讃歌のような形式を取ることもある。
自然界に対してだけでなく、人間同士のコミュニケーションのためにも用いられる。赤ん坊が誕生した時、その子供に対して歌われたり、親しい人同士で、その人の外観、人格的美点、欠点、人生など描写したヨイクを歌い合うこともある。また、たった一人でトナカイが牽く橇に乗ったとき、その孤独を癒すためにも歌われる。
ヨイクは、決して吟唱詩のようなものではない。メロディーだけ、リズムだけで構成されるようなヨイクも存在するが、詩による、“歌う”ヨイクが優勢であることは確かである。しかし、この詩が、実際のサーミ人の口語で行われるということはない。ヨイクを構成する詩の言葉は、極度に省略、簡略化された特別の言葉、あるいは象徴的なイメージ群からなっているのである。そのため、サミ人の自然に対する視点や生活、感性を共有しない非サーミ人にとって、ヨイクをそのままに理解することはほぼ不可能といっていいだろう。この“わかりにくさ”のために、ヨイクはしばしばヨーデルと比較される。しかしこれは大きな誤りである。元々谷と谷の間で羊飼いたちの連絡手段として発生したヨーデルと違い、ヨイクは子音と母音の組み合わせから成り、歌い手はそれを慎重に選択、配列することによって、一言に膨大な情報を持たせるのである。
18?19世紀にかけ、他のスカンディナヴィア人の統治下に置かれ、民族的なものを否定する価値観にさらされていたサミ人は、ヨイクについても、それを所持していることが恥ずべきことであると思いこまされていた。この状況の中で、しかしヨイクを伝えることに執着した者たちは、形を変え、ヨイクを存続させることを選択した。
つまり、弦楽器や打楽器、管楽器による伴奏を伴ったヨイクを生み出したのである。
元々ヨイクはシャーマン・ドラムを打ち鳴らしながら行われていたため、楽器の伴奏がつくことに何ら不思議はないように思われる。しかし、例えばノルウェー人の民族楽器ランゲレイクやフィンランド人の民族楽器カンテレを使うことで自らの民族的地位を同時に向上させようとしていた節もある。事実、南部スウェーデンにおいて、サーミ人は社交的な場所に積極的に出かけ、ダンスを踊り、ヴァイオリンを演奏することさえしていた。今世紀初めにはコラ半島のスコルト・サーミ人はロシア流のアコーディオンを演奏し、カドリール(一種のスクエア・ダンス)を踊ることがステータスになってもいたのである。
老年層のほとんどはヨイクを歌おうとせず、中年層はヨイクを知らないといった状況が生まれつつあった中、ヨイクは復興の兆しを見せる。若いインテリ層が民族的アイデンティティの復興と確立を掲げ、ヨイクを再興し始めたのである。しかし、この流れもすぐには身を結ばなかった。ヨイクをすること、それはキリスト教会と政府によって処罰の対象とされていたのである。
民族的アイデンティティ復興の動きは、ニルス・アスラク・ヴァルケアパェー(通称:アイル)というフィンランド国籍のサーミ人現代詩人がヨイクを始めたことで一気に進んだ。彼の目的は、古いスタイルのヨイクを、あくまでその基本を損ねることなく復活させることであった。彼の目論見は成功したといえる。ニルスは1994年ノルウェーのリレハンメルで行われた冬季オリンピックの開会式壇上でヨイクを熱唱し、多くのサーミ人に勇気と希望を与えた。
民族意識が高まる中、その流れにさらに拍車をかける存在が現れる。それが、マリ・ボイネというサーミ人女性である。彼女は政治的メッセージを歌詞に込めたヨイクを次々と発表、自らの政治的立場を明確にすると共に、様々な問題について賛否を要求され始めたサーミ人に訴えかけ始めたのである。
彼女のヨイクのスタイルとして特徴的なのは、ギターの伴奏を伴っている、ということである。彼女のメイン・テーマは先住民と植民地主義者、異なる民族間に起きた文化的衝突の悲劇を表現することである。
1973年、フィンランドのカウスティネンに民族音楽研究所が開設され、ヘイッキ・ライティネンが初代所長に就任すると、彼は「民族音楽はすべからく博物館から民衆の元へ降りなければならない。それだけが、民族音楽が生き残れる唯一の道である」というスローガンを掲げ、フィンランドの民族音楽を次々と復興し始めた。木の笛、カンテレなどの古代の音楽や民族歌謡が見直され、その研究が行われると共に、それらの音楽を演奏、吟唱するグループができ始めたのである。
アンゲリン・テュトットも、言ってみればこうした流れの中で誕生したグループであった。アンゲリン・テュトット、後にアンゲリットと改名することになるこのグループは、ウルスラとトゥーニのランスマン姉妹によって1982年に結成された。元々少女時代からヨイクに興味を持っていたこの姉妹だったが、最初は学校の先生に命令されるような形で始めたらしい。しかし、そんな事情をよそにやがて二人はヨイクに熱中。89年には現在ソロで活躍中のウッラ・ピルッティヤルヴィを加え三人で活動を始める。その後、やはり現代的民族歌謡のグループとして結成されたヴァルッティナのリーダー、サリ・カーシネンに見出され、彼女が主催しているレーベルからCDを出すことになった。
彼女たちのヨイクの特色は、まずその多様な音楽性にある。伝統を重視する一方、様々な音楽、例えばプログラミングを重視したクラブ系サウンドを取り入れてみたり、他のヨーロッパ音楽を取り入れたりもしている。
彼女達が尊敬するヨイクの第一人者、ニルス・アスラク・ヴァルケアパェーやマリ・ボイネも、ヨイクをジャズロックとあわせるなどして色々な表現スタイルを試みているが、アンゲリットの二人も決してそれにひけをとってはいない。子供の頃から世界各地を回ってジャンルを問わないフェスティバルに参加し、自分達のヨイクを聞かせているほか、地元のクラブ系のKLFのアルバムに参加するなどして広い視野を持ち続けている。このためであろうか、自分達のアルバムにもドラム・ベースやアンビエント・サウンドを取り入れて常に時代性を感じさせるヨイクを発表している。これまでにヨーロッパの国々はもちろん、エストニア、ロシア、アメリカ、中国でも積極的にパフォーマンスを行っている。日本にも二度来日し、その中でアイヌのミュージシャンとの共演も経験している。
セタノール スタッフ 青空の破片 シロキ システム シャリ フレッシュ 星空 レビュー スケープ レター セラピスト ウォータ 雪化粧南瓜 ヤンゴン マリン フリマ ジンゲス ひえい リヤド 大冒険ニュ ポポポ ハート なご セレシン ジンク ネーチャー ブル スティック スポーツ リトル ショート システ フリー 砂漠のバラ ブジー コスメ クリーム トロメア うぇあ あしげ プロペラ ナイフ ショッキ キュート イング スタメン チャ・チャ バラクーダ ローブチ